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天才技術者は謎の死をとげてしまう。《JBLの歴史2》

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1946年に再び会社を興したランシングが最初に世に出したのはD101というフルレンジのスピーカーユニットです。その翌年、やはりフルレンジのスピーカーユニット、D130を世に問うのです。これは当時の技術からみれば驚異的な性能をもっていて、ランシングの名を一躍高めます。   口径38cmで、かなり大型のユニットですが、それひとつで全ての音域をカバーするフルレンジとして発売されました。アルテック社にいた時から、ランシングは家庭用の高性能で美しいスピーカーの開発を目指していたと言われています。   レコードはまだSPの時代です。家庭用の高性能オーディオ装置など、アメリカでもまだ夢の話でした。この時点でランシングが未来をどこまで予測していたかは分かりません。やがてアメリカの家庭にオーディオ装置が普及する時代がやってくることを見越していたのかもしれません。。   ランシングはD175などのスピーカーユニットを次々と発表していきます。それらはのちにネットワークされてひとつのスピーカーシステムという形をとることになります。JBLのスピーカーユニットの基本的な性格、それを組み合わせたスピーカーシステムの性格も、ランシングが構想して設計したものでした。   天才的な技術者にありがちな話で、ランシングにはマネージメントの能力はありませんでした。アルテック社に買収された時、ランシングの会社は火の車でした。資金を必要としていたランシングと、ランシングの才能を求めていたアルテック社がひとつになるという買収劇だったのです。   退社後、ランシングとアルテック社とのあいだには軋轢が長く続きました。また新しい会社は当初から資金難でした。独立の1年後には早くも航空会社から資金援助を受けて、ようやく経営危機を乗り越えて研究を続けられるという状態だったのです。   1949年9月、ランシングは自社所有地の木に首を吊って死にます。その保険金1万ドルで会社は存続することができました。

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