1952年、JBLは初めての2wayのスピーカーシステム、「001」を発売します。このあともスピーカーシステムを次々と発表しますが,当時はスピーカーシステムではなく、組み立て用のキットとしても販売していました。「001」の価格はキットの状態で1台が350ドル以上です。当時のレートで日本円に直すと12万6000円、日本の大卒初任給が1万円程度の時代でした。

 

翌1954年に名機の誉れ高い「ハーツフィールド」を発売します。設計したのはJBLの主任技師、ロバート・ハーツフィールドです。彼は工業デザイナーでもあったから、木製キャビネット、コーナー型エンクロージャーのデザインは極めて洗練され、現在でも古びていません。「家庭用の美しいスピーカー」を作るというランシングの夢が形になった「ハーツフィールド」は、雑誌『Newsweek』から夢のスピーカーと絶賛され、表紙を飾ります。ここでJBLはスピーカーのメーカーとしての地位を確立しました。

 

1957年、伝説の名機、D4400「パラゴン」を発売します。3wayのステレオスピーカー・システムです。レコードのステレオ録音が始まったのは1958年ですから、JBLはホーム・オーディオの急速な進歩を先取りしていたことになります。JBLのスピーカーユニットと高度な木工技術が融合した「パラゴン」は、「家庭用の美しいスピーカー」そのものでした。発売から半世紀を超えた今も愛用されています。その後も「ランサー」「オリンパス」など、JBLはランシングが目指したスピーカーを次々と発表します。

 

1960年代になると、スピーカーに要求されるものが大きく変化します。大音量の野外ロックコンサートが開かれるようになったのです。大出力では群を抜いて音質がよいJBLのスピーカーは、ロックコンサートのPAの主役になっていきました。「ウッド・ストック」のステージでJBLが使われてから、野外、劇場内を問わず、ロックコンサートのステージは、JBLのロゴを印したスピーカーが独占しているというのが当たり前の光景になってきたのです。

 

ロックミュージックの世界で言えば、JBLが創業してすぐに発売したフルレンジユニットのD130はにフェンダー社のギターアンプに採用されています。小型で高出力、高音質のD130は、ギターアンプに「理想的なスピーカー」だとされたのです。